【資料紹介】苗木生産の茶



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              写真は「公私用留帳1」

 神土村(現東白川村)の神戸弥八の記録「公私用留記帳 明治三年」に「苗木生産青茶箱内法寸」という図があります。木箱の外箱は縦1尺3寸5分・横2尺2寸5分高さ1尺4寸(内箱の高さは1尺8寸)で、「御銘茶所」と大きく書かれ、左端に「苗木生産」と書かれました。
 明治3年(1870)はまだ苗木藩の時代だから、「苗木生産」と云っても実際には白川茶でしょう。江戸末期、苗木城下では多喜場(苗木城の下、木曽川べりの平場)に茶園が作られ、後に美恵橋を造って高名な鈴木三蔵が足軽としてこの茶園の経営を任されますが、数年で江戸詰めになります。成果が無かったのでしょう。

文久年中(文久元=1861)には城主手作りとなり、別に茶園奉行・作り役人を抱え茶園を作ったが、格別利益も出ず、差し止めになった。明治維新で残らず廃止にされた。」
                 (新田淳「苗木明細記」)
                 
 これに対し、『新修東白川村誌』によれば」、白川では貞享元年(1684)の「神土村年貢通帳」に藩へ御用茶を納めた記録があり、享保年間以降は毎年、御用茶を納めたようです。        

 「東濃の茶の製法は青製のみにして・・・その元は加茂郡白川製より出て東濃一円この風になりたるもの」 
            (「県下製茶巡回教師の復命書」『同』)

 幕末頃、白川の茶の製法は「釜製」で、従来の平釜での七度りの手間を節略して一度釜で炒ったものを莚の上で丹念に揉み、日陰乾しにした。この「 陰乾茶」を「青製・青茶」という、と『村誌』にあるので、箱に書かれた青茶はこれを指すのでしょう。
 明治5~8年にかけて海外市場への道が開かれた事により、にわかに商品性を高め、明治14年の茶の販出高は神土村840貫・五加村620貫・越原村128貫、金額合計2379円に及んだ、といいます。

「茶も近年追々植え付け沢山になり、新芽を摘み商法とす。所々より商人入り込み買い取り横浜并に飯田所々へ荷物に造送り出すこと多し。」   (新田 淳 「苗木村・旧上地村名産の記」)
というので、苗木でも茶の商法はあった様です。



掲載(最終更新 : 2019年10月 1日)

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