【資料紹介】二つの涅槃図



 涅槃図(ねはんず)は、釈迦の入滅(死)を表した図です。弟子や衆生(しゅじょう)、鳥獣までもが悲しみ、飛雲に乗って摩耶(まや)夫人が臨終に馳せ参じようとする光景が描かれています。

江戸時代の雲林寺涅槃図
 企画展「苗木の廃仏毀釈」で、江戸時代遠山家の菩提寺(ぼだいじ)である雲林寺所蔵であった涅槃図(175×210cm)が展示されました。8代藩主遠山友明(ともあきら)の時代に、京都の表具師に注文し、宝暦2(1753)年、雲林寺に奉納されたものです。
 明治3(1870)年9月、廃仏毀釈により苗木藩内の寺院は廃寺となりました。雲林寺の剛宗(こうじゅう)和尚は、帰俗(きぞく)(住職を辞める)を拒否したため、苗木藩庁は雲林寺の仏具・什物(じゅうもつ)の持ち出しを認めて、苗木を去らせました。剛宗和尚は下野・蛭川(現・中津川市)を経て、佐見(現・白川町)で生涯を終えますが、その間雲林寺の什物を売り払い、生活したようです。
 この涅槃図は明治36年飛騨高山の人が購入し、そのまま高山の善光寺に奉納したもので、今回145年ぶりに苗木へ里帰りしました。
 涅槃図以外では、雲林寺本尊の釈迦仏像こそ未確認ですが、本堂横に置かれた黒地蔵菩薩坐像(複製)・十三仏画・大般若波羅蜜多経600巻・住職の袈裟・過去帳など、雲林寺の什物と思われるものが、昨年と今年2年かけて里帰りしました。
 雲林寺の創設が慶長19(1614)年で、一昨年が創設400年だっただけに、記念となる里帰りになりました。

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江戸時代の涅槃図

 

もうひとつの涅槃図
 中世苗木遠山氏ゆかりと云われる釈迦涅槃図が、今は須原(現・長野県大桑村)の定勝寺(じょうしょうじ)(木曽氏の菩提寺)にあります。苗木遠山史料館にはそのレプリカが展示されています。
 これは天正10(1582)年8月に修復の上、定勝寺に持ち込まれたもので、入手した天心和尚が長年望んでいたものと、涅槃図文書に記録されています。また、この涅槃図は木曽義昌の子愛宕(あたご)が、「信州一乱」(武田滅亡直後、織田信長が本能寺で憤死した後に各地で起きた争乱)に乱取りで持ち帰ったもので、求めずして得たものだと、天心和尚は感謝しています。
 涅槃図の持ち込まれた天正10年は、天下の形勢目まぐるしく、1月には遠山友忠の働きで、木曽義昌(妻は武田勝頼の妹)が勝頼を裏切りました。それを友忠が織田信長に進言したので、信長は武田を攻め、武田滅亡に至ります。この時、2月、木曽義昌は苗木遠山と共に鳥居峠へ攻め入ります。3月、武田が滅ぶと、木曽義昌は褒賞(ほうしょう)として筑摩(ちくま)を入手し、深志(ふかし)(松本)城主となりました。しかし、6月に信長が本能寺で憤死すると、深志城は旧主小笠原氏に攻められ、木曽義昌は敗れて、ついに松本から木曽福島へ後退しました。
 この涅槃図は、天正10年8月に須原の定勝寺が入手する前は、坂下(現・中津川市坂下)の西方寺の所蔵だったといわれています。しかし涅槃図文書を読むと本当に西方寺のものであったかは疑念もあります(涅槃図と同じ頃、定勝寺が入手した遠山正景奉納の大般若経600巻は、確かに坂下西方寺の寺宝でした)。
 この頃、苗木の遠山友忠は、木曽義昌と最も親しい関係にありました。よってその時に涅槃図を友忠の支配下にある坂下から木曽が奪うとは考えにくいのです。また、木曽義昌が深志城主(松本)で、小笠原氏に押されて、ついに木曽福島へ後退するその時期に、義昌の子愛宕が、木曽福島より遠い坂下へ侵略する事実はあり得るでしょうか。
 涅槃図文書には、「信州一乱」とあって、坂下とは書いていません。松本から後退するときに持ち帰った可能性があるのではないでしょうか。
 歴史を洗い直す必要がありそうです。(ち)

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中世の涅槃図



掲載(最終更新 : 2018年1月16日)

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