【資料紹介】鰐口、「廃仏」の遺産



◆収蔵品

1870(明治3)年9月に苗木藩庁は藩内の寺院を廃寺とし、住職を還俗(げんぞく)させました。 この命令に一人従わなかったのが、藩主遠山家の菩提寺雲林寺の剛宗(こうじゅう)和尚でした。 藩庁は、剛宗に300両と寺院の什物(じゅうぶつ)の持ち出しを認め、下野の法界寺(ほうかいじ)へ追いやりました。 剛宗はその後、蛭川の高徳寺、白川町佐見の大蔵寺(だいぞうじ)へ転住し、明治34年に逝去。 この経過で持ち出した寺院の什物は各地に散逸しました。
 雲林寺に近い上町洞(かんまちほら・現在のさくら公園北)に庚申堂(こうしんどう)がありました。 中世にはこの庚申堂は新谷(あらや・現在の新谷会館地)にあったが、江戸時代には存在せず字名「申堂(さるどう)」のみが残りました。 そこに曽我氏が屋敷を建てた。江戸時代前期に、曽我屋敷内から庚申堂の本尊、青面金剛(しょうめんこんごう)が掘り出され、 それを祀るために、新たに場所として、洞に庚申堂が建てられました。最初の堂守(どうもり)が浄心という人(17104年没)だったことが 、過去帳(正岳院)でわかります。 剛宗和尚は蛭川で高徳寺を建立した際(1885年)、洞の庚申堂(こうしんどう)にあった鰐口(垂れた紐で鳴らす)を掛けました。
  掛けられた鰐口には、次のように彫られていました。
 「奉寄附鰐口一面濃州苗木城下庚申観音寺願主堂守浄心
 元禄十六癸未十一月十八日    施主城下信男信女等」
1703(元禄16)年に、堂守の浄心が願主として鰐口を寄付した。寄金は城下町の百姓たちに依るというのです。
  日にちまで特定しているので、311年前に洞の庚申堂が落成された記念の鰐口だろうと推察されます。
  新たに鰐口の主となった高徳寺は築126年を経て老朽化し、2012(平成24)年に再建、落成されています。
  洞の庚申堂は明治3年に取り毀され、明治14年になってかつての曽我屋敷のあった、つまり中世に庚申堂があった場所に庚申堂が再建され、現在に至ります。
  奇しくも、江戸前期に掘り出され、洞の庚申堂の本尊となった青面金剛は現在は佐見(白川町)の庚申堂に祀られ、 また嘉永年間(1848~53)に曽我屋敷跡から掘り出された庚申鏡は現在は新谷の庚申堂に保存されています。(ち)

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掲載(最終更新 : 2017年6月 2日)

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