【資料紹介】三百年前の絵地図



◆苗木城夜話
268年前の苗木城下絵図を読む

苗木城下の絵図は、268年前(1745年=延享2年)年前と213年程前(1800年頃)の2枚があります。 268年前は、戸数は168戸、記入された名前117人。城下の豪商亀山家や山下家はすでにいたのですが、 名が見えないので、絵図は家臣(武士)のみを明記したようですが、それらでもいろいろ判って来ます。

 一例を上げると、上町御門のすぐ上に河内縫殿(ぬい)右衛門(えもん)の屋敷がありました (今は史料館から本町へ向かう途次、堤がある東)。 ところが55年後、1800年頃の絵図はそこが青山良作の屋敷になっています。 河内縫殿右衛門の娘が青山良作の妻になる。縫殿右衛門の嫡子河内左中(兄)は1779年に江戸詰となり、江戸へ転住した。 留守宅に妹夫妻が住んだ。 沼に実家がある青山良作は、兄新吾が病気のため代わりに仕官し、分家をなした。 丁度、妻の実家が空いたので、そこを住まいとしました。
「諸士名鑑」・「分限帳」・「雲林寺過去帳」、そして河内家の家系譜で、河内氏・青山氏の関係が見えてきます。

 さらに高森墓地に行くと、河内家墓地の下に青山家の墓地がありました。
本家青山家の墓地は高山と沼(新谷)にあるが、分家青山良作は新たに墓地を高森になした。 そこに良作夫妻の墓だけでなく、意外にも妻の母(河内縫殿右衛門の妻)の墓がある。 縫殿右衛門(墓碑は河内家墓地に)の死後、左中は江戸へ行く(左中父子は江戸で用人・家老に栄進)が 母は娘の嫁ぎ先で暮らしたのではないかと想像してしまいます。

 青山良作は、明治初年に明治政府幹部となった青山稲吉景通の祖父(初代良作)に当たります。 景通妻の墓碑はこの青山家の墓地に在るが、景通とその子、直道・胤通等の墓は東京で、 それぞれ別の墓地(蓮光寺・染井霊園・谷中霊園)にあります。
別々というところに明治以降の青山家の多難さが見えましょう。

 2枚の絵図と遠山文書からこんなところまで読み取れました。(ち)



掲載(最終更新 : 2017年6月 2日)

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