【資料紹介】排仏廃寺の強行に、青山は不在!



◆展示品紹介

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政庁日誌

 明治3年の(苗木)政庁日誌と次官日記(『恵那山をめぐる歴史と伝説』所収)を見ると、大参事青山直道について意外なことに気づきます。
 5月17日 (大参事)青山(東京へ)出立す
 それ以降、青山の記事はなく、唯一、
 9月15日 神明宮神事に付き御神酒7升
       石原 東京青山 棚橋 曽我 水野
       献備
 と幹部の献備に東京にいる青山直道の名が見えます。ようやく青山の消息がみえるのは、
 10月8日 青山大参事 帰藩 去る1日東京
       発(旅程が詳しく記述)
 当時の政庁日誌には士族の1,2日の欠勤・出張でも詳しく記載されますが、5月から10月まで主役の筈の大参事青山の消息は一言も記述がありません。  青山は不在だったのです。
 そして東京の平田延胤(のぶたね)から京都父銕胤(かねたね)に宛てた明治3年6月24日付書簡に、
「苗木学問大繁盛之よし。今日青山氏、家内と佐次郎、子同道にて入来・・・」
 青山氏は父景通、佐次郎が長男直道です。東京では5月28日に集議院が開会し、9月10日に閉会。これに出席していたようです。 東京・苗木の往復に半月はかかる時代でした。
 そうとすれば、7月から9月にかけて苗木藩の排仏廃寺が急展開し、青山大参事がそれを強行したといわれていましたが、 その現場に青山直道はいなかったというびっくりする事実が見えてきます。

 7月 領内すべて神葬祭にする
 8月 仏具は廃棄し、石像は掘り埋めよ
 9月 領内は廃寺にし、僧侶は還俗せよ
 これら排仏廃寺の運動が実は青山不在の期間に急展開したようです。
 青山直道にすべての責任を負わせる従来の見方を見直す必要がありませんか。(千早)

恵那山2010年7月号



掲載(最終更新 : 2017年6月 2日)

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