【資料紹介】皇国学(みくにまなび)・・・「国学」以前



◆展示品紹介

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祭学神祝詞(部分)

 明治2(1869)年12月、苗木藩校日新館が竣工すると、校内の弥広神社に三学神と四大人が祀られました。 「祭学神祝詞」(写真)は明治3年2月の祭事に実際に用いられたものです。

 祝詞は大和言葉で書かれており、漢学(からまなび)に対してここでは「国学」は「皇国学」(みくにまなび)と呼ばれています。 少し遡(さかのぼ)ると、国学という言葉は古くからあるものの、本居宣長は学問で皇国(みくに)を学ぶのは、 和学・国学とは言わず「皇朝学」と呼ぶべきだといい、平田篤胤はそれを「古学」「古道学」と呼んでいます。

 幕末には「皇学」(みものまなび)と云う言葉が用いられたようです。その頃、「我が国」を皇国(みくに)と呼ぶのが主流になりました。 慶応3年に伊那、中津川の平田門人が伊那に四大人を祀る霊社を建てた時、平田銕胤(かねたね)は「国学は面白からず」として、 「本学四大人」とさせました。その頃まで「国学」という言葉は避けられていたきらいがあります。 苗木藩で慶応4年の「覚秘録」(遠山友禄)では、平田篤胤の云う「古道」「古道学」が見えます。 明治3年に苗木ではこれを「皇国学」(みくにまなび)と特殊に呼ぶようになった背景は現在は分かりません。

 「国学」が今の意味で用いられるようになるのは明治15年東京帝大に「国学」専門の学科が設けられてからのようです。 以降「皇学」に代わって「国学」という用語が主流になり、現在に至ります。 明治の初めには「平田国学」という言葉は用いられなかったようです。(千早)

2011年4月号



掲載(最終更新 : 2017年6月 2日)

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