【資料紹介】鳥羽城の受け取り



◆展示品紹介

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鳥羽城の請け取り

 江戸前期の大名には御家騒動などで御家断絶、改易といったことがよくありました。 その城を請け取る任務を苗木藩主4代遠山友春は2度命じられました。1680(延宝8)年に鳥羽城、1702元禄15年に岩村城を請け取りました。 後年、11代遠山友寿(ともひさ)け取りの記録を書き写しています。 原資料は明治初年に処分されましたが、友寿の抜き書きは遠山家に残り、請け取りの様子を見ることが出来ます。

 1680年5月、4代将軍家綱が卒し、6月江戸増上寺で法会われましたが、その場で、鳥羽城主内藤忠勝が同僚の永井尚長を刺殺するという事件が起きました。

 内藤は切腹、御家断絶になりました。8月苗木藩は鳥羽城請け取りに出ましたが、 藩主始め家老纐纈藤左衛門・用人の小池傳兵衛60余人、雑兵410人を加えると470人以上の軍が鳥羽に向かった事になります。 8月28日、請け取り、閏8月2日(閏月は同じ月が2度続きます。)と云う大台風に見舞われ、山国の苗木藩士は大変な経験をしました。 その後藩主は帰国したものの、翌年4月に次の藩主土居利益に引き継ぐまで9か月近く鳥羽城を守備しました。
鳥羽城はその後も藩主の改易が頻繁にあり、地震による津波の被害もたびたびで、現在は鳥羽水族館の向かいの高台に城跡(県史跡)が残ります。 切腹した内藤忠勝の甥に浅野内匠頭がおり、彼が江戸城で吉良上野に斬りつけたのは21年後1701(元禄14)年の事でした。 叔父、甥ともに江戸で大変な刃傷事件を引き起こしたのです。

 岩村城主丹羽氏が藩内騒動で改易させられるのは、その浅野内匠頭の刃傷事件の翌年、1702(元禄15)年でした。 岩村藩では側用人山村瀬兵衛が財政改革を強行しました。反対派が幕府に訴え、裁定の結果、山村は無罪とされましたが、 藩主丹羽氏音(うじおと)は騒動が起きた責任を問われ、閉門となったのです。苗木4代遠山友春は飯田藩掘大和守と岩村城請け取りに出ます。 岩村へは7月28日に出発、総勢445人、飯田藩は257人。8月1日には請け取り、藩主は翌日帰りましたが、 全体は10月に次の松平乗紀(小諸藩主)に引き継ぎ大役を終えました。(千早)

2012年1月号



掲載(最終更新 : 2017年6月 2日)

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